「夏の終わりに③〜蝋燭の光の中で〜」(終話)




           夜マッカートニー…2015年8月30日
                                       @南青山
                        「三脚の彼はどう撮影したのか見てみたい」

                                        LX100

               ※写真をクリックすると二段階で大きくなります…是非どうぞ!




最終回、担当課長に捧げます…



の日、僕とアントニオは珍しく遅くまでテントに残った。正直言えばどれだけ正しい会話が出来ていたのか怪しいのだけど、無口なアントニオが自分自身の生い立ちを話し出したのを聞かないわけにはいかない気がしたのだ。

彼はシチリアからフランスに不法に入国した「ノワール(黒)」と呼ばれる不法移民だった。10年前からはブルーズ氏の雑用を生業にし、10歳下の奥様は幼馴染みで二人の間には8才と4才の子供がいると言った。

当時のパリは今と状況がかなり違う。まずは1990年代の前半のフランスはあくまでもヨーロッパの中の一国に過ぎず、当時ヨーロッパ共同体(EC)の中にあって通貨は独自のフラン、経済も独立していた。
時代は流れこのあとEU(欧州連合)になりヨーロッパ間の国境は取り払われて簡単に国家間の移動が出来るようになったが、そんな事が現実化するなんて思っても見ない時代だった。

特に移民問題はセンシティブで、移民政策はその時の政権によって左右に大きく振れた。選挙ごとにルールがガラリと変わったと言っても良い。突然環境が極端に厳しくなったかと思えば、選挙の結果で嘘のように緩くなったりしたのだ。
しかし本当に苦しんだのは不法移民ではない。正規に申請をして生活をしている我々だった。不法移民に国が定めるルールなど意味を持たないからだ。


移民が増大することによって社会的な不安が増大したのは事実で、場所によっては治安が悪化したり(するように見えたり)、社会保障費が高額になったりする事で、フランス国民と移民の間にはギクシャクした感じが常にあった。特に不況の時にはその不満の矛先が移民に向かう事があって、大きな社会問題にもなった。それは常に火種が常に燻っていたと言ってもいい。



この時の話は今でもよく覚えているが、何よりも衝撃的で頭から離れないのは「貧しいが故に祖国を離れなくてはならない」などという事が21世紀も間近に迫った時代に、シチリアとはいえイタリアという先進国で普通にある事を知ったことだった。

そして不法就労までしながら異国の地で家庭を築いて暮らして行くという現実を、目の前にいる人から直接聞くという衝撃だった。少なくとも日本に暮らしている限り、貧しくて故郷を捨てたとしても、異国の地で不法移民として不法就労をしながら暮らしていくという選択肢は想像すらしないだろう。

「今住んでいる部屋もnachopapaの半分。家族4人そこに住んでる。nachopapaの部屋、バスタブもシャワーもある。別にシャワーブースもある。とても幸せ。日本人はとても幸せ。いつか日本に行ってみたい。」



22:30を過ぎるとやっと辺りは暗くなり始める。
アントニオはテントやその周りに配されている蝋燭一つ一つに火を点けていった。もうその火を見るのはこの場にいる僕とアントニオ、そしてこの庭に面している窓を持つ二階のフランス語学者だけだろう。ブルーズ氏はもう寝てしまっているに違いない。
全てのキャンドルに火を点け終わったアントニオは再び横に座りボソボソ話し始めた。

「私にはあまりお金ない でも奥さんいる。子供二人いる。毎日の仕事ある。食べるものも沢山ある。nachopapaも早く有名なデザイナーになって、結婚して、家族出来ると良い。日本人もイタリア人も、フランス人も皆一緒 それが幸せ」


なんだかその夜の彼の言葉と、暗闇に浮かぶキャンドルの光と、夏が終わる夜気の肌寒さを一緒にして深い所で覚えている。だからこの時期、一枚羽織りたくなる肌寒い夜気の東京で蝋燭のディスプレイなどを見ると、アントニオが静かに語る姿を思い出す。



もし今アントニオに会ったらきっと70才近い計算になる。また蝋燭の光の中で話をしてみたい。そしてこう言いたい。

「アントニオ、僕は有名なデザイナーにはなれなかったけど、あなたに言われた通り結婚をして家族は出来たよ。二人は無理だったけど一人娘がいるよ。あの時言われた「幸せ」って言うのはよく分かるよ。アントニオは日本に来られたのだろうか? 時々逢って話したくなるよ。あの時よりも酷いフランス語になってしまったけどね。」と。


そして僕がそうであるようにアントニオもあのテントの夜を覚えていると良いなぁと思うのだけど…。