なんとも恥ずかしい…(一部改訂)
- Day:2008.08.31 23:59
- Cat:独り言
まずは訂正とお詫び、そしてお礼を。
正直言うと、ほとんど会社では買わない雑誌ではあるのだが、「キャンキャン」こと「cancan」は
「cancan」ではなく「cancam」であることを、えいねんさんからの指摘で知った。
多くの方が気付いていたと思うのだが、脱字誤字王の僕の事だから…と見逃してくれていたのかも知れない。かたじけない。
問題はこれが誤字脱字ではなく、完全な誤認識で…cancamである事を知らなかった。
これは非常にマズイ…きっと今までも、ずっとcancanと書いて来たのだと思う。
きっとこれで間違える事はなくなると思うのだが、もし以後も同じ表記があったらどうか教えて欲しい。
と、もう一点。
実は「oggiの…」と表記した小川洋子氏のエッセイの話だが、これもmaronnさんの指摘で
「Domani(ドマーニ)じゃないのか」と…。
実はその通りだ。小川洋子氏の連載エッセイはDomainであった。大変申し訳ない。これは単純に
勘違いなのだが…こうも続くと、ちょっと言い訳が厳しい。
改めて影響力のないブログで良かった…と思わずホッとした。
教えて下さったお二人に改めて感謝の意を。…有難うございました。



アントニオは庭師だった。庭師でありながらペンキ屋でもあった。
ペンキ屋でありながら配管工でもあった。電気の配線も出来たし、夏になると大工の様な事も
していた。
その腕前は玄人裸足だったし、雇い主であるブルーズさんも彼の仕事ぶりにはとても
満足していた。
知り合いも知人も居ないパリに留学したボクは、ひょんな事からパリ郊外の築200年以上の
大きな屋敷の三階部分(言ってみれば屋根裏部屋)に暮らす事になった。きっと多くの人が
パリのアパルトマンの屋根裏部屋と言うと、ちょっとお洒落な感じを想像するかも知れないけれど、
実際の屋根裏部屋と言うのは、多くの場合…そう快適ではない。
何故なら、そもそも屋根裏部屋と言うのは「女中部屋」的なポジショニングなのだ。
エレベーターもない時代の6階から7階の天井の低い、風呂もない、およそ快適とは言い難い
シチュエーションなのが、屋根裏部屋なのだから。
ところが僕の住んでいた屋根裏部屋は、ちょっとリッチな感じだった。当時の留学生の多くが
2000~3000フランの家賃で暮らしていた時に、郊外にも拘らず5000フラン(当時のレートで12~15万円)の屋根裏部屋となれば、ある程度の広さと設備がないと通らない。
居間があり、勉強するスペースがあり、寝室が別にあり、狭いながらも浴室もバスタブもあり
(バスタブが無い家が結構あるのだ)浴室には電話ボックスのようなシャワーブースまであった。
老人の大家さんが非合法で、身元の確かな人に(現金払いで)部屋を貸していたのだ。
アントニオはその屋敷の雑務一切を請け負っている40代の男性で、ちょっと暗い目をしたシャイで
無口な心優しい移民だった。なんでも出来るのではなく、何でもしないと生きていけなかったのだと
思う。アントニオの本当の名前を帰国するまで知ることはなかったが、彼の喋るフランス語がとても聴き取り辛いのは、それがどこかの国の訛りがあったからなのだと分かったのは、留学して二年が過ぎ、僕自身のフランス語がなんとかなり始めた頃だった。
築200年の家は、とても丁寧にメンテナンスを受けていて、趣味の良い調度品で整えられていたが経年の劣化を常に管理していないといけない状態だった。ペンキ塗りに始まって、かしぐドアの調整をして、庭の芝を刈り、バーベキューエリアのテントを洗い、グリルの清掃をして、木々への散水をする。
アントニオはあれだけの時間をブルーズ氏の家のメンテナンスに費やしていたけど、それが本職かどうかは分からなかった。いつもシャイな伏せ目がちな笑顔で控え目な挨拶をしてくるだけだった。
ある年のクリスマスの日…その日からクリスマス休暇になることを知ったボクは、お礼を込めて小さなプレゼントと、少しばかりのチップを渡した。数週間前にお風呂の排水目詰まりを、修理をして貰った事があったからだ。少し嫌な語感を伴う言い方に聞こえるかも知れないが、雇用主と使用人という立場がハッキリ分かれている社会では、機会がある毎に心付けを渡すのは社会的な慣習である。
国が変われば文化も変わる。文化も変われば慣習も価値観も変わる…分かっているのに、何かこう上下の関係がそこでハッキリしてしまう様な気がして、それが嫌だったのだ。それでも今回は排水管の一件があったので、心付けを渡したのだ。
アントニオは普通に受け取って、いつもの様に優しい伏せ目がちな視線で有難うといった。僕のフランス語も相当酷いが、アントニオのフランス語もとても酷い。でも彼と時折する短い会話が僕は大好きだった。
日曜日の朝はスーパーではなく市場で買い物をする。スーパーを始め特定の商店を除いて、ありとあらゆる店が閉まってしまうからだ。そこで買い物をしているアントニオ夫妻に会った。挨拶をしてアントニオよりももっと下手なフランス語で奥さんに挨拶をされた。足元にはまだ小学生の低学年らしき男の子と、女の子がいて同じように挨拶した。それは移民の両親とは違うネイティヴなとても美しいフランス語だった。
また火曜日に…と言うような挨拶して、アントニオの家族と別れた。離れて行く家族は決して裕福でない事はすぐに分かった。でもその場の視界に入る他の誰よりも、とても幸せな家族に見えた。
あれから十数年経って、僕は小さな家族を持った。そしてあの時のアントニオの子供と同じくらいの娘を持つようになった。
今日渋谷の街に娘とショッピングに出かけた。気付くとショーウィンドウの反射で僕らが映っていた。映った姿を見て、ふと思った。僕と僕の家族もあの時のアントニオの家族と同じように幸せな家族にちゃんと見えるのだろうかと。もちろんそれは自分で決める事ではあるのだけど。